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”Blue sunset seen from the quiet room” 第5話「信じる(後編)」

白群 初の自伝的連載小説


私は日常のふとした時に東北で祖母と過ごした日々を思い出そうとしたけれど、気がついたら上手く思い出せなくなってしまっていた。祖母についての記憶は、朝目覚めてから朧気に思い出す世界観の狂った明け方の夢のように生気や現実感が無く、他人事のようだった。

祖母のことを考えようとすると、霧で満たされた暗い森に閉じ込められてしまったような、項垂れる自分を遠くから眺めているような、人混みの喧騒の中、耳を塞いだり開けたりして音を歪ませているような、童謡の同じところばかりを何度も歌い先に進めないような、目に見えているものの形や色が、本当にこれで正しいのか分からなくなってしまうような、言い表しようのない孤独感と、生身の人間の実感のようなものの喪失があった。

あまりにも寂しくて、1度足を踏み入れたら、もう二度と戻って来れないような気がした。開けることのできない記憶の扉の向こう側に祖母は居たのだ。


祖母の精神の病が悪化した際、祖母は毎日ひっきりなしに母に電話をかけ、兄を引き取ると言い張った。
祖母は兄のことを気味が悪いほど溺愛していた。手元に置いて可愛がり、ゆくゆくは自分の全ての世話をさせて看取らせると公言していた。

自分で産んだ子を自分で育てられないなんてあんまりです、と携帯電話を耳に当て薄暗い和室で正座し、畳に額を擦り付けんばかりに何度も頭を下げる母。見えない祖母に謝っているのだ。
「おめぇの勝手が通ると思ってんのか!いい加減にしろ!」
携帯電話越しの祖母の怒号が和室に響き渡り、母のすすり泣きの声と混ざる。勝手なことを言っているのは明らかに祖母の方なのに母はまた暗闇に頭を下げる。
「霊能師さまも私に賛成してんだ!おめぇの我儘に付き合ってられっか!」
祖母に罵声を浴びせられ、何度も頭を下げるのに疲れると、母は額と畳の間に手を挟んで土下座のような姿勢のまま電話を続けた。


母は結局兄を手放さなかった。祖母が諦めるまで、辛抱強く、兄を手放すことはできないと謝り続けた。母が祖母に逆らったのは私が知っている中でこの1度きりだった。

母は、宗教を乗り換えた。
兄を手放すことを勧める霊能師が嫌になったのだろう。霊能師は祖母の味方だったけれど、新しい宗教は母の味方だった。
新しい宗教の施設に通い、炊事洗濯掃除をし、宗教の関係者らに状況を相談し、彼らに励まされ、母は祖母の猛攻を防ぎ切ることができたのだ。

母が宗教を乗り換えたことで、我が家は以前と比べ物にならないほど平和になった。母が和室で身体を丸めてすすり泣くこともほとんど無くなった。
信徒仲間とのメールや、その宗教で指導的な立場にいる人への手紙の書き損じ、その返信を盗み読みする限り、新しい宗教は霊能師よりもずっと穏やかで、親切なように思えた。
棚に飾られた御札も、霊能師のものよりもずっと綺麗でしっかりとした作りのものだった。
高価なものを買わされている様子もなく、母が、私や兄に信仰を押し付けることもなくなった。
ぽつりぽつりと、父からの電話も増えた。


信じやすい母とは正反対に、私は何も信じることができなかった。少女にありがちな、胸に秘めたささやかな確信すらなかった。

何も信じられないということを、私は悪いことだとは思わなかった。心に誰も何も書き込めないまっさらなノートを1冊持っているようなものだと思った。
信じることも、悪いことだとは思わなかった。周りの信仰で嫌な思いは沢山したけれど、信じないことが正しいと、信じることができなかったのだ。


母は、母自身のことが嫌いだった。いつも、自分は駄目な人間だとこぼしていた。
祖母に虐げられてきた自分。学校でも虐められた自分。姉妹と比べ器量の良くない自分。好きな人と結婚できなかった自分。家族に怒鳴る自分。
和室の引き出しにしまわれた、母の書き損じの手紙には、母自身の悪口ばかり書かれていた。

自分のことを嫌っていて、自信がなければ、何かを疑う自分の気持ちも信じられないのだろう。母には、信じたものが歪んで見えたとき、疑う勇気が足りなかった。信じていたい気持ちだけが先走り、周りを傷つけてしまっていた。

私から見た母は、父とのことや信仰のことなど、苦手なところも山ほどあったけれど、それを上回るほど、真面目で、優しくて、容姿端麗で、桜の花みたいに笑う、朗らかな人だった。決して、母の思っているような駄目な人ではなかった。


私は、祖母からの攻撃的な電話が続いている間、終始、無力だった。家族が上手くいくかいかないかの花占いで大量の花を散らした。水溜まりを埋め尽くす花弁の残骸を見て、こんなことをしたかったんじゃないのに、と思った。祈り方を知らなかったのだ。

祖母からの攻撃が終わった日、母はリビングの床に崩れ落ちた。寝転がる、でも、倒れる、でもなく、しゃがみこんでそのまま横になるように、ゆっくりと崩れ、最後に頭が床とぶつかり、ごとりと音を立てた。黒髪に隠れて表情は見えなかった。

父が家庭から離れたことも、怒鳴られる時の胸の痛みも、全て見ないふりして駆け寄りたかった。しかし1歩も動くことができなかった。もしも、余計なことしないで、と言われた時、後悔してしまうのが怖かった。


しかし人形のように横たわった母を見て、ここで立ち止まっていてはいけないと、強く感じた。母のために何かできることはないだろうか。
私はせめて、母に伝えていこうと決めた。
母は、母が思っているような駄目な人間じゃないということを。母が自分を信じることができるようになるまで、信じたものを疑えるようになるまで。
今は穏やかに思える新しい宗教でも、何が起こるか分からない。同じ苦しみを繰り返さないためにも、母に伝えるべきことが沢山あった。

そう思うと、少しだけ足が動くようになった。私は、床に崩れ落ちたまま微動だにしない母の傍にしゃがみこみ、手を握った。何を言えばいいか迷っている間に、母は目を開き、遠くを眺めるように細めた。長い睫毛が黒髪をもたげ、肌がのぞいた。長い間まともに眠れていなかったのだろう、少し眠たそうだった。

母の指の腹は乾燥して、縦に線が入っていた。その皺をなぞるように親指で撫でているうちに、ふいに手を握り返された。私よりも体温が低いはずなのに、私の手よりもずっと温かかった。母は泣いていた。焦って、ますます何も言えなくなってしまった。本当に伝えたいことは、伝えるのが難しい。
その日は、どちらの手が温かいのか分からなくなるくらい長い間、ずっと手を繋いでいた。その日から、母は怒鳴らなくなった。


その後、私は母宛の手紙を何通も書いて渡した。直接伝えるのはどうも気恥ずかしかった。ある時、手紙の行方が気になって、褒められることではないけれど、母の留守の時にこっそりと箪笥の中を探してみた。「宝物」とマジックペンで書かれたチャック付きの袋の中に私からの手紙はあった。


◉白群
ミスiD2021サバイバル賞、大森靖子賞、アメイジングミスiD受賞。
好きなものは生物画、鉱物、山の朝焼けと雲海、海底から眺める青空。
https://miss-id.jp/nominee/16016