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”Blue sunset seen from the quiet room” 第6話「燃える」

白群 初の自伝的連載小説


 11歳の冬、無理を言って連れてこられた、祖母の古希を祝う旅行の最終日の夜のことだった。祖母に呼び出され、ホテルの長い緑色の廊下を歩き、部屋のドアを叩いた。旅行中ずっと母の陰に隠れて祖母から逃げ回ってきたけれど、それももう限界だった。
空気を吸えば吸うほど身体が重くなり、吐けば今までの大切な思い出が逃げていきそうだった。

窓際のベッドに横たわる祖母は、外遊びに疲れた少女のようにだらしなくベッドに身体を預けているにも関わらず、どこか一国の女王のような雰囲気を纏っていた。実際、祖母は母家系の独裁者だった。
完璧に染め上げられた黒髪、野生のフクロウのような瞳、少し潰れたような形の鼻、赤紫色の口紅をさした唇、抜けるように白い肌、手首には天然石の腕輪がジャラジャラと揺れていた。
私を手招きでベッド横の椅子に呼び寄せると、
「旅行は楽しかったか?」と聞いた。「楽しかったです」と答えた。その返事しか許されていないからだ。
「おらいも楽しかった」と祖母は言った。おら、もしくは、おらい、というのが東北生まれ東北育ちの祖母の一人称だった。

普段どうやって指を組んでいたか分からなくなって5回ほど指を組み替えた。組み替える度に汗で湿った指のまたが小ぶりなシャンデリアの光に照らされて小さく光った。祖母の香水の尋常ではない甘さで胸が粘つきそうだった。
「今日はお前に話があるんだ」
私は組んだ指の先を関節と関節の間に食い込ませた。力を緩めると、細い三日月型の爪の跡が見えた。



「昔はお前、本当に邪悪な子で、悪魔のようで、畜生で、将来は人殺しになるだろうっておらいは心配していたんだ」
私は顔を上げて頷いた。一点を強く見詰めているのにチリチリと視界が揺れ動き、荒かった呼吸が更に乱れた。深呼吸、と自分に言い聞かせた。

「でもお前の邪悪な心を、おらいが殺してやったんだ!」
祖母は興奮していた。幼い子が害虫を殺したことを家族に自慢しているようだった。
心のダムに、一気に10個穴が空いたような気がした。吸い込まれる水を無心に眺めているようだった。私は胸を押さえて、顎の先が鎖骨につきそうなほど俯いた。
祖母は私に構わずまくし立てた。

「霊能師さまからお前が悪魔のような子だって聞かされてから、沢山祈ったんだ、御守りも買ってやったんだ、お前が心を入れ替えますようにって。この間、霊能師さまに言われたんだ、おらいのおかげでお前の中に巣食っていた邪悪な心は死んだって、今はもう良い子ですって。おらいのおかげなんだ…
おらいが殺してやったんだ!」

私は何か言おうとして口を開いたものの、鋭く息を吸っただけで、一言も言葉を発することが出来なかった。祖母は黙り、私は視線を落とした。いつかの父と同じように、溜め息だと思われないよう、ゆっくりと鼻から息を吐いた。
合皮の靴のつま先の、シャンデリアを反射している鈍い光が微かに揺れていて、どうしてだろうと思ったら、自分の脚が震えていた。
窓の外からはホテル前の出店で買い物をする観光客の笑い声が軽やかに響いていた。



これが私の人生の原点なのだ。

そう思うとあまりに空しくて笑ってしまいそうだった。祖母が殺したものは、悪魔のような、邪悪な心ではなかった。祖母が殺したものは、幼かった私の心の全てだった。お祈りや御守りじゃなくて、祖母自身の手で私の心を殺したのだ。祖母はそれを知らない。

血圧が一気に下がったのか、内臓ごとせり上がってくるような吐き気と身体の重さに耐えきれず腹を抱えて蹲った。

そのまま後頭部を殴られたような衝撃とともに、幼少期、祖母から与えられてきた絶望の数々が走馬灯のように脳内を駆け巡った。そしてそれらが一瞬のうちに去っていった後、運ばれてきた海底の砂のように死への憧れがさらさらと心を撫でた。死にたい。久しぶりに涙が零れた。

それと同時に、奇妙なことだけれど、人生で初めて生きたいとも思った。家族を助けたい、大人になりたいと願う裏側で、ずっと、よく笑いよく泣きスポーツなんかもする死体になれたらいいなと思っていた。それが今は、自分の心と身体を抱えて生きていきたいと強く願っている。死にたいという気持ちも抱えたまま。

矛盾した願いを抱えてしまった私の命がどんどん燃え上がっていくのを感じた。死ぬのも怖い、生きるのも怖いなんて、誰が言ったのだろう。私は逆だ。切実に死ぬことを望み、同じくらい生きることも望んでいる。その気持ちがぶつかり合って青い火花を散らしている。

燃え上がる私から逃げ去るように、心の奥でぱっくりと開いていた傷口が閉じていった。傷口を塞げなかった時どうしようもなかったように、傷口が閉じていく今もどうしようもなかった。
「待って」と「さようなら」を同時に言った。心の中でなら、同時に正反対のことを言えるのだと初めて知った。



「…お礼は?」
長い沈黙のあと、おもむろに口を開いた祖母の言葉で、私は跳ね起き、どんな顔をしたらいいか分からないまま祖母に視線を向けた。祖母もまた、私を見ていた。不機嫌そうな、顔をしていた。
「おらいのおかげでお前は人間として生きていられるんだ。ありがとうの一言も言えねのか」
私は返事をしなかった。胸の中の炎はぞっとするほど静かに燃え続けていた。他にも色々なことを言われたけれど、祖母に何を言われても私はきちんと傷つくことがなかった。私は傷を失っただけではなく、傷つくということそのものを見失ってしまったのだなと悟った。胸がはち切れそうなほど悲しいのに変わりはないけれど、正しく傷ついているのとは、何かが違かった。傷ついた時、今までは寂しさが必ずあったけれど、今は少しも寂しくないのだ。

もう一度、礼を言いなさいと言われ、「ありがとうございます」と言って、ふらふらと部屋を出た。私の心を殺してくれてありがとうございますと頭を下げる私もまた、私の心を殺しているのだと思った。それがもう癖になっていることにも。

いつか、心を殺さず殺されず、心のままに生きていけるだろうか。いつか、また真っ当に傷つくことができるようになるだろうか。いつか、生きててよかったって言えるだろうか。そのいつかまで、少しも寂しくない孤独を抱えて、私は生きるのだろうか、それとも死ぬのだろうか。

こころをなににたとえよう

最近見た映画の、ヒロインが歌っていた歌の一節が、ふと頭に浮かび、消えていった。



◉白群
ミスiD2021サバイバル賞、大森靖子賞、アメイジングミスiD受賞。
好きなものは生物画、鉱物、山の朝焼けと雲海、海底から眺める青空。
https://miss-id.jp/nominee/16016