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”Blue sunset seen from the quiet room” 第4話「入院」

白群 初の自伝的連載小説


私と3つ上の兄、揃って40℃を超える原因不明の高熱が続き、病院に担ぎ込まれたことがあった。

入院当日、「霊能師さまに電話したからきっと助かるよ」、母は包み込むように兄の頬に手を添え、親指だけを動かして撫でた。「手が冷たすぎてほっぺが痛い」と兄は言った。兄の熱は私よりも高かった。母が手を離すと、兄は母から顔を隠すように、こちら側のベッドを向くと俯いた。自分が傷ついてもいいのか迷っているような、泣きそうな顔だった。

私たちの病室には、大量の御札や御守り、ペットボトルに詰められた清めの水が置かれることとなった。それらの総額が入院費の倍を超えることを母は子供に隠さなかった。

仕事の合間を縫って見舞いに来た父は、その異様な病室の様子に戸惑った。ささくれた厚紙に誤字だらけの御札、折り畳んだ半紙をセロハンテープで巻き固めただけの御守りを手に取り、「なんだこれは」と聞いた。私と兄の工作物だと思ったようだった。「霊能師さまの御札と御守り」兄が答えるとただ悲しそうに目を伏せて、微かな音を漏らす冷蔵庫から小さなペットボトルの水を手に取り口を付けた。
あ、と声をかける間もなく、椅子に腰かける父の背後でガラリと軽い音を立て病室の扉が開いた。売店から戻った母がチラとこちらを見、その瞬間兄とよく似た端正な顔が、右目を見開き左目を細める形で左右非対称に大きく歪んだ。後ろ手で勢い良く横開きのドアを押すと、扉はレールの軌道上をバタバタと暴れながらスライドし、叩き殴ったような音を立てて1度閉まったあと、勢いを殺しきれずに反動でまた半分ほど開いた。母は父の元へ大股で詰寄ると水をひったくり、父が飲んだその水が、霊能師によって清められた如何に希少で高価な水であるか、看護師が駆け入るまで、点滴のチューブが震えるような大声で怒鳴った。父はできるだけ声を殺して「知らなかったんだ」と謝った。その金の出処、母が専業主婦であることにも一切触れなかった。それでも尚母は強く責め立て、父は何度も頭を下げた。床を向いた横顔から、父が消毒液の匂いが強い病室の空気を胸いっぱいに吸い込み、母に溜息だと思われないようゆっくり、ゆっくりと鼻から吐き出しているのが分かった。看護師は御札と御守りとペットボトルの山からサッと目を逸らし、「お静かにお願いします」とだけ言って帰った。
私は両親のどちらとも目を合わせないよう、手首に繋がれた点滴のチューブに10cmほど逆流している血の、何かを諦めさせるような赤さをずっと眺めていた。


私と兄の容態が順調に快方に向かい、退院の目処が立ち始めた頃、「死人の怨霊たちが病室をひしめき合い子供たちを祟っている」と霊能師の女から電話がきた。母は病室を引き攣った顔つきで見回し、兄の元へ駆け寄り覆い被さるように抱き締めた。 「必ず助けるからね」

面会時間が終わり母が出ていったあと、病室のベッドに仰向けになり天井を見上げていた。電気が落とされ、緊急用の呼び出しボタンのみが見開かれた兄の目をほのかに赤く照らしていた。兄が体制を変えこちらを向くと、左の頬を除いて顔全体が影に入り、優しい青みを帯びた。兄は点滴に繋がれていない方の手を私の肩に触れるか触れないかのところまで伸ばして「助かったね」と呟いた。心だけ、兄の手に縋り付いて泣いた。しわくちゃになった顔を両手の平で覆い、安堵の息を吐き出すのと同時に身体の強ばりが解けていった。足の指を丸めるとパキパキと音がなり、ぐっと開くと、点滴を引き抜いて駆け出したいほどの開放感が溢れ出した。

霊能師が関わると知った時から、私はずっと怯えていた。千里眼や神のお告げという形で立場の弱い者を悪者に仕立てあげ、苛烈な制裁を加えさせるのが彼女のやり方だった。特に祖母と癒着し、霊能師の女を親族ぐるみで信仰している東北の母の実家では、よく私がその犠牲となった。日常の瑣末なトラブルから家族の病、親類の受験や結婚の失敗、大雨や地震の天災まで私の責任で、大人の暴力は容赦がなかった。

私の安堵が伝わったのか、「良かった」と兄は薄暗闇でも分かるほど晴れやかに笑った。「お化けなんていないから」
誰かにとっては存在し、誰かにとっては存在しないものを犠牲にするのは分かりづらい残酷だけれど、今回ばかりは本当に助かったのだ。


粘り気のある液体の糸のような両親の関係性は今回のお告げで完全に腐り落ちてしまった。霊能師の指示通り、車で4時間ほどの川にお祓いに行くと言い張る母に対し、父は断固拒否した。母に泣かれても喚かれても「絶対に行くな」と毅然とした態度を崩さなかった。今までずっと自分の主張を押し通し、「お父さんは世界一心が広いから」と小馬鹿にしたように言うのが口癖だった母は、酷く動揺し虚ろな目で病室を歩き回った。
私と兄ふたりとも点滴が外れ、全快が近いことは医者のお墨付きであったけれど、信心深い母はお祓いに行かない限り何度でも同じような災難が降りかかると信じていた。父のことを信仰のない極悪人だと罵った。

母からの激しい説得が数日続いたのち、ある日、ふらっと病室に現れた父はすっかり回復した私と兄の姿を病室のドア付近で暫く見つめると、母にも私たちにも何も言わずに立ち去った。そしてその足で川に行き、母に言われていた通り御札と塩を投げ込んで、そのまま家庭に帰ってこなくなった。母と離婚して私を連れ出してくれないかと思ったけれど、ただ帰ってこなくなっただけだった。


退院を翌日に控えた日、兄と一緒に折り紙で鶴を折った。もう治っているのに自分たちで自分たちのための千羽鶴を作ろうとしたのだ。折り紙の内側に絵を描いてから折って、作った鶴を蛍光灯に透かして折れ曲がった絵を眺めた。10羽ほど作ったところで、今度は願い事を書いてみようと思い鉛筆を握り締めたけれど、手が止まってしまった。嫌なもの全部なくなれと書いたら真っ先に自分が消えていきそうな気がした。大人になりたい。大人になりたいと書こうと思った。大人になれなかったら、生まれ変わって好きな色になりたい。好きな色が、思い浮かばない。

作った折り鶴を全部ぐしゃぐしゃに握り潰した。兄が作った分まで潰したけれど、兄は何も言わず黙々と鶴を作り続けていた。潰された鶴が散らかる机に兄の手で新しい鶴がそっと載せられた。光に透かすと、何も内側に書かれていない、真っ白で空洞で手の平に乗せていると虚しさばかりが募る鶴だった。



◉白群
ミスiD2021サバイバル賞、大森靖子賞、アメイジングミスiD受賞。
好きなものは生物画、鉱物、山の朝焼けと雲海、海底から眺める青空。
https://miss-id.jp/nominee/16016