プレビューモード

”Blue sunset seen from the quiet room” 第3話「雲の影」

白群 初の自伝的連載小説

転入した学校は、こぢんまりとした田舎の学校だった。家から徒歩で40分ほどかかり、夏の暑さが厳しい間はこたえたけれど、コンクリートの住宅街を抜けた先、学校に通じる一本道の左手には雨蛙の棲む青々とした田んぼがあり、空に映える通学路はささやかな楽しみでもあった。
定年間際の小柄な女教師が担任で、その学校一の厳しさと地獄耳、どれだけ烈しく叱ったあとでも必ず最後には「挽回できますよ」と励ます優しさのおかげで、教室は子供特有の邪悪さが蔓延ることもなくいつでも澄んだ川のようだった。

転入当初、自分の単純な名前すら漢字で書けないほど遅れていた学習も数週間のうちに巻き返し、どの教科も高成績となった。運動も字も絵も楽器も人並みよりずっと上手くなった。転校する以前の、何をしても身にならず、みすぼらしい劣等生の私とは全くの真逆だった。

夏の終わりの雨の日、給食のうどんを啜りながら、ふと「魔法ってあるのかな」と思った。転校の後先でのあまりの変わり様に戸惑っていた。雨音が激しく、教室は賑やかな笑い声で満ちていた。魔法、という鮮麗な言葉は私の心模様に馴染まず、これだ!と掴んだ星が指の合間からむにゅうと飛び出て破裂するように、脳裏に浮かんで消えた。
とても蒸し暑かったその日、転校してから初めて給食を食べ残した。誰も私のことを怒らなかった。5限目は算数だった。


私は常に怯えている子供だった。他の子だったら好きな先生の気をひけたと喜ぶ程度の冗談じみた注意でさえ、巨大な手で握り潰されるような苦痛を感じた。正方形の教室の床は、教師や気の強い子の機嫌次第で簡単にぐにゃりと歪んでしまうように思えた。
たとえ自分が嫌いな相手であっても、誰からでも好かれたかった。そのくせに自分は、ほとんど誰のことも好きになれなかった。
愛想笑いに疲れ、窓際のセロハンテープの剥がし跡を指先でなぞりながら、息苦しい、と思うことがしょっちゅうだった。


一人だけ、隣に居ると伸びやかに呼吸できる女の子が居た。その子が人生で初めての友達になった。aという名前の、明るく柔らかでいて、さっぱりとした負けん気の強い子だった。
乳白色の空に霞んでいた雲が、夕方、背後から太陽に照らされてその輪郭をくっきりと、影の色を濃く美しくするように、aは私を照らし、私は今まで押し殺してきた気持ちと出会った。それらの気持ちを、周りと違っているから、という理由で心の奥底に仕舞い込む前に、彼女は熱心に褒めてくれた。変だよ、変だよ、すごいよ。
すっかり打ち解けた私たちは、教室で、廊下で、校庭で、図書館で、体育館で、音楽室で、よく冗談を言い合っては笑い転げていた。 彼女と居る時は、いくら笑っても笑い足りないくらいだった。

△△△

2021年9月21日

春のクラス替えで呆気なくクラスが離れ、aとは自然に疎遠となった。中学入学以降は顔を合わせる機会もなく、共通の友人も居なかったため噂すら聞かなかったけれど、昨年の夏、突然呼び出されて彼女の部屋に行った。実家から徒歩約4分、顔を突き合わせて話すのは約10年ぶりだった。彼女は相変わらずチカチカと眩しく、私も相変わらず独特な影を落としていた。
久々にaと話して、この10年間、彼女を見ただけで傷ついた人も居るだろうなと思った。私も時期を間違えればそうなっていたかもしれない。


今日、8月末に20歳の誕生日を迎えたaにプレゼントを渡してきた。西加奈子さんの『ふくわらい』を選んだ。
待ち合わせの新宿南口の花屋に現れた彼女は、「ずっと会いたかったよ!」と笑った。10年振りでも1年振りでも同じ台詞を言うところが良かった。
私たちはカフェでアイスティーを注文し、お互いの近況を話した。彼女は私のミスiD受賞と連載の開始を大いに祝ってくれた。 aは話が盛り上がった時、共感した時に、可愛らしい握りこぶしをこちらに差し出す。私は彼女よりか一回り大きく骨ばったこぶしをそっとぶつける。ぶつけた瞬間は良い意味でちょっとピリッとする。とても空腹な時食べるラーメンの、1口目に飲むスープみたいだ。
このままでいようね、と言われ、このままでいようね、と返す。友情の話ではなく、正反対なお互いの生き方についての話だった。
帰りは新宿駅西口に向かうはずが、新宿西口駅に着いてちょっと迷った。ややこしい。


aと別れ、新宿駅の改札を通り抜ける際の電子音でピッと思い浮かぶ。今日はバターアイスを食べよう。
東京の電車は各々の尻の大きさが1座席分みたいなところがある気がする。スカートの広がりに気を使いながら、男性と男性の隙間に挟まるようにして一つだけ空いていた座席に腰をかける。すっぽりと収まった。

私の斜向かいには小学校の低学年とみられる女の子が1人、私学の制服を着て座っている。大きな児童書を広げ、読み耽っている。軽く開いた脚が床から浮いて前後に少し揺れている。
両隣りの大人があまり距離を詰めないよう気を使っているからか、その体躯があまりに小さいからか、その子の周りだけ、持て余した座席の色が鮮やかに覗いていた。

電車に揺られながら、子供が居る、と心配混じりの視線を寄せるようになったのはいつからだろう。大人に囲まれながら、大人が居るって思わなくなったのはいつからだろう。自分が子供か大人か、考えなくなってから、結構経つなあ。自分のことを子供だと言い張っても、大人だと言い張っても、子供ではいられない瞬間、大人ではいられない瞬間がそれぞれやってきてしまう。その瞬間は時に一日の中でさえ何度も切り替わることがある。自分の都合を押し通すほど子供でもないし、自分の都合の良いように切り替えられるほど大人でもない。10代も残すところあと約3ヶ月。


18時過ぎ、バターアイスを齧りながら最寄り駅から家へと帰る。右手に持つ味噌が重たい。自炊を始めてから、もう家庭科の調理実習の時のように、絵の具を溶かすような気持ちで味噌を溶かすことができなくなってしまった。
気まぐれな歩き方をしつつ空を見上げると、青く透き通るように暮れていく空が街に夜の気配を流し込んでいた。空が綺麗だから、味噌のこと、ただの味噌にしか思えなくなってもいいかなと思った。

バターアイスの最後の1口を舌で舐めとる。ほんの少し木の香りが混じっていた。




◉白群
ミスiD2021サバイバル賞、大森靖子賞、アメイジングミスiD受賞。
好きなものは生物画、鉱物、山の朝焼けと雲海、海底から眺める青空。
https://miss-id.jp/nominee/16016