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”Blue sunset seen from the quiet room” 第1話「2021年8月某日」

白群 初の自伝的連載小説
illustration&title design:仮名井



雨上がりの夕焼けを待ち侘びて空を眺めていたけれど、甘酒のように優しく濁り曇ったまま青色の滲む夜になってしまった。そっとカーテンをひいて、暖色の電球に灯りをつけ、目薬を軽く振ってさす。力加減を間違えたのか3滴ほど一気に落ち、目を閉じると溢れた目薬が目尻から耳の方へ伝う。まだ安定しないピアスホールを濡らす前に指の腹で拭った。
夏至はとっくに過ぎているはずなのに、今が1番日が長いような気がしてしまう、8月の夜。


昼間、本棚を整理していた時に見つけた萩原朔太郎の『純情小曲集』を手に取り、頁をめくる。久しぶりに見る懐かしい言葉たちが並んでいる。特に気に入って繰り返し読んだ詩の一節に目が留まる。

こころをばなににたとへん

本を閉じ、段ボールの内に積み上げられた十数冊のハードカバーの1番上にそっと置く。新居に運び入れる段ボールの荷詰めはこれが最後だった。
私はもうすぐ実家を出て1人で暮らす。私が大学を辞め就活を辞め塾講を辞め、地元より田舎で暮らし始めることを、両親と兄以外、誰も知らない。



連載の草稿と睨み合っているうちに電子音が鳴り、ロック画面に「成人まであと○○○日」という通知が浮かんだ。日付が変わったのだ。集中していると時間が経つのが速い。私はこめかみを親指でぐりぐりと押す。頭が少し痛む。
自分の人生を書くということが、こんなにも難しいことだとは思っていなかった。誇張で起承転結を付けて物語の形にしたものじゃなく、できるだけ生の人生を書きたい。それがすごく難しい。
それでも私がなるべく事実に即した文章にこだわろうと思うのは、授賞式後、ミスiD公式HPの選評を読んだとき、全て私のこととして素直に受け止めることができた喜びがあったからだった。誤解を恐れず、嘘をつかず話し続けたことで得られた選評だから、全部残らず私のためのかけがえのない言葉だと思えた。
司君は白群の納得のいく形で、と言ってくれているし、もう少しこのスタンスで踏ん張ろう。世間を知るより前にまず自分のことを知りたい。


暫くまた草稿と向き合ったあと、私は立ち上がって眼鏡をかけ、窓とカーテンを開けて夜空に目を凝らした。まだ曇っていて星は見えなかったけれど、昼間の雨のおかげか8月にしては随分涼しく気持ちの良い夜だった。

今日はもうここまでにしよう、と大きく伸びをし、そのままの勢いで電球の灯りを消してベッドに倒れ込む。布団を抱き締め、横向きに丸くなり、目を閉じて何も考えないように努める。他の様々な考え事が薄れていっても、「こころをばなににたとへん」、この一節だけはずっと頭に浮かび続けていた。自分の最も無邪気な部分がそれを掴んで離さないようだった。


私のこころを星にたとえたとき、その核は今日もこの先も透明だろうか、考える。私の星のみてくれはまだ歪だろうか。私以外の生き物が住める環境だろうか。私の星が塵のように思えるほど巨大なこの地球で、真っ当に傷つき傷つけながら生きてゆけるだろうか。暗闇の中、目を見開いて暗闇を見る。まだ、何も分からない。

ただ、「わたしはこの星で生き残る」

そう呟くと糸の塊が解けていくように気持ちが楽になった。目が暗闇に慣れて、部屋の家具の輪郭がぼんやりと見えるようになってくる。ふと明日は午前に起きてみようと思ってスマホのアラームの設定をした。力を抜いて仰向けになり、深く呼吸する。スマホの光を見たからか、また真っ暗で何も見えなくなった。
私は目を閉じる。細やかな光の粒が瞼の裏で蠢いているような心地がする。引越し作業で後ろ倒しになってしまったけれど、起きたら司君に連載の相談をしようと思う。

眠りに落ちる前触れとして、夢と呼んでいいのかすら分からない取り留めのない映像が頭に浮かんでは消える。見た瞬間から忘れていくような不思議な継ぎ接ぎ。やがて柔らかな波に飲まれるように、眠りに沈み込んでいく。朝が近い夏の夜空の端っこよりも透明な心で明日も生きていきたいと、祈る。




◉白群
ミスiD2021サバイバル賞、大森靖子賞、アメイジングミスiD受賞。
好きなものは生物画、鉱物、山の朝焼けと雲海、海底から眺める青空。
https://miss-id.jp/nominee/16016